Paca Kajero

うちの菜園の状況などを徒然に

自然農の嘘と欺瞞

大昔に、有機農法と自然農法について書いたが、
ヒマなので、蛇足。


そもそも、「自然農」というものは、定義があいまいで、
ぶっちゃけ、言ったもの勝ち。
「俺のとこが本物の『自然農』だもんね」
みたいな農家が(拙菜園も含め)わんさかいるので、たちが悪い。
経緯としては、そこに一定の基準をつけようとしたものが有機Jas規格で、
有機農法」と言う場合は、ある範囲内の基準を満たした農法ということになり、
比較的分かりやすい。


ただ、実際はどうかというと、
Jasをとってもとらなくてもニンジンの味が変わるわけではないので、
ま、そういうあくまでラベルの問題。
勿論、このラベルの問題は、野菜を買う側にしたら、ある程度の判断基準になりえる。


一方、「自然農法」は人によってどういうものか、という基準が異なるので、
どのようにその概念を捉えるかは、生産者、消費者含め、個々に判断しなければいけない。


判断という点では、有機農法だから安心ということではなく、
お上から、「○○の基準を作りました」と言われ、
それを鵜呑みにして何も考えないのだったら、それは食の問題に限らず、少し怖いことだ。
生産地が遠い都市部では基準はある程度必要だろうが、
有機農法、自然農法、そのほかの農法、農法が何であれ、
本来は個人個人がきちんと自らの食に関して判断しなければならないはずだ。


***


で、作物の作り方としては、何を誰がどうやろうと、人のことは関係ないんだけれど、
僕みたいな素人がちょこちょこ野菜を売っていても、
また、マスコミ、ネットなどの情報からも、
違和感があるものが見受けられたり、違和感のあることを耳にすることがある。


「自然」ってなにさ?


明らかに誤った情報が氾濫しても、良心的な科学者は大して発言しないし、
そもそも、とても危険なことに、人は、
「自分達の都合の悪いことに耳を傾けない」
本来、一番耳を傾ける必要のあることは、自分と全く違った意見であるにもかかわらず。


原発の問題でも、平和についての問題でも、
人は白か黒でのみ判断しがちになる。


思考を変えるだとか、正しいか、間違っているか、ではなくて、
大事なことは、「自分と全く違ったことを考えて、立っている人がいる」
ということだ。


***


話が飛んでいるようだが、そんなに飛んでいない。


要は、人が「自然」について語るときには、
一抹の正しさと、多くの誤りを含んでいるということだ。
自然について、古来から多くの科学者が、その神秘を解き明かそうと一生をささげてきた。
が、未だ多くの事柄は分かっていないし、おそらくすべてが分かるということは未来永劫無いだろう。
つまり人は、「ほんのちっぽけな分かっている部分」と「あとのよく分からない部分」
の総体として自然に接しなくてはならないし、そこにはある種の謙虚さが必要になると思う。


***


「自然農」って言葉に引っ張られる思考停止
宗教と同じく、何かすがることがあるときに、人はとても弱い。
マスコミ、著名人、「有識者」、声の大きな人、
そのような多くの偽者が、
「自然に関して(もちろん自然農も含む)、○○です」
と断定的に話すときに、思考停止の心地よさと相まって、その言葉にたなびく。


が、現時点で(もちろん将来も)人類は、
「自然というものの、こんなちっちゃな部分が分かりました」
といえることがあっても、
自然について、断定できるほどの知見は持ち合わせていない。


つまり、個人的な「なんちゃって自然農」について言及することは出来るかも知れないけれど、
それが自然という言葉を使って、正しいのかどうかは、分からない。
(僕は使うけどね)
そもそも、採取ではなく農になっている以上、「自然」とは大きく矛盾する。
外来種(作物)の人為的導入、収穫という名のエネルギー搾取etc...

これが「農法」となってくると格段に嘘臭さが増す。
例えば内地の農法、海外の農法、肥料を与えず放任する農法...
いろいろあって、それはそれで問題ないんじゃないかと思うのだけれど、


少なくとも、うちの場合では、同じ敷地内で数10m離れると土質も日当たりも温度ですら変わるので、
違ったことをしなければならない。
実験室でならともかく、「農法」と思考停止し、同じことを繰り返すことで、
よい野菜が採れるのかなぁ。
仮に条件が当たって、良いものが採れたとして、
そのステージで満足することに、職人としての矜持があるのかなぁ。
少なくとも、あまり尊敬が出来る同業者じゃないですね。


***


「自然栽培だと本来の野菜の味で、おいしいか?」
野生種、特に食用ではなかったものを品種改良した作物を本来の味に戻すことが良いか悪いか、
がそもそも不明。
単に味に対する個々の嗜好と捉えるべき。
ただし、生産性のみを追うのみではなく、味についても多様化は必要と思われる。
思考の多様化と、文化的意義も含めて


野菜が虫などに食べられ、抵抗性物質を出した際の苦味...
これも個々の嗜好。
例えば抗菌作用がある物質を食べて吐き気をもよおすことと悪と考えるか、
同じ作用で(人にとって)悪玉のバクテリアが駆逐されることを善と考えるか、
など、これまた個々の認識で一概には言えない。
ジャガイモのソラニンや、ほうれん草のシュウ酸など、
人によっては、明らかに毒性がある場合があるので、いくら自然だからと言っても油断はしないほうが良いし、
正しい知識を身に付けたほうが良い。


「自然栽培だからこのほうれん草は生で食べられます」
というのは、少しおかしい...


***


「自然にまかせて野菜を育てると、人に良いものがうまく自然が造ってくれる」なんちゃら的な話
残念ながら、うちのお客さんにもいるし、宗教的健康おばさんたちがよく口にするのだけれど、
まったくナンセンス。
なんて知的レベルが低いんだ、ゴット!
と信じていない神に祈りそうになる。
自然のなかの一部として人がある、
人為的介入が無い限り、もしくは、人為的な事柄も含めて、
(人が現在生息して、それも含めて自然と呼ぶ場合には)
ある程度の真実はある。
が、自然(他の生命、無機質な物、事象)は、無指向だから!
「人のために、人の健康のために、自然が○○である、もしくは○○へと変容する」
と考えることこそ、人の欺瞞の最たるものだ。


野菜も、虫も微生物も、それぞれが懸命であるだけで、
(自らが生き延びるために形の上で他の生物を助けるケースもあるけれども)
基本的には、他の生き物のことなんか、これっぽっちも考えていない。
人も他の生命も、その大きな輪の中で、あがきながら、搾取し、利用し、生きているだけで、
人がいくら「自然万歳」と叫んだところで、
食べられる野菜にしてみたら、大きな迷惑だ。


「自然のために」「自然とともに」なんて農業はただのおためごかしで、
なんていうんだ、
「俺は強盗はしたけど、人は刺してませんよ」
レベルの話なのに、どうも、宗教じみた信者が出てくるから、困る。


***


外来種の導入の是非」
ブラックバスマングースに代表されるような、
大きな動物でのの外来種の問題は盛んに騒がれているのに、
生物農薬や、生態的防除、微生物資材をもてはやす人が、所謂自然農法を行っている農家でも多いことに、
生態学を学んでいたものからすると驚きを隠せない。
「人が土中のあまたの微生物のうちの、ある特定の微生物の効果や働きだけをコントロールできる」
という考え方が、そもそも人の驕り以外の何者でもなく、
(現に導入した大動物=比較的コントロールしやすい、での成功例なんてないからね)
自然だ、自然だ、と騒いでいるのに、
全然自然を恐れていないんだな、と思う。


***


一体、僕達は、どこに行く?


  ryo