Paca Kajero

うちの菜園の状況などを徒然に

誕生日でした

昨日、わざわざTさんが来てくれ、一緒に探してくれたにもかかわらず、
結局、鍵は見つからず。


Tさんにシリンダーをはずして頂き、
(すごいな、俺はこういうことできないぞ)
軽トラをお借りして鍵屋さんへ向かうことに。
それでも鍵屋さんに来ていただくよりはかなり安価にすみました。
不幸中の幸いです。
こういうときに貧乏だと辛いですね。


(Tさんにも「イモで食いつないで春まで待ったら出てこないスっかねぇ」と人事&のんきなことを言っていたら、
「お前のところは草だらけなんだから春になっても見つかる分けない!」
と指摘され、納得しました...)


さらに「一日早いけれど...」とご馳走をいただきました。
ありがたいかぎりです。


***


今日はうんともすんとも言わないうちのデキスターくんをTさんのご友人であるMさんに診ていただきました。
・・・おそらく修理不能との事。
直そうにももうこのトラクターは部品がないとの事。
仕方がない。フォードのAさんに部品あるか聞いてなかったら雑品行きですね。
新しいトラクターを買うかどうかは、来冬までに考えましょう。
もう雪降らないで。


あとは、昨秋に頂いてきて放置してあったハウスのアーチパイプを掘り出して、
本数と状態のチェック、その規格本数での購入部材の整理。
温床材料をハウスに準備。
・・・去年壊れていたので直そうと思ったら、工具が見当たりません。
今年はものをよくなくす...。


さて、車が動かんことには何も出来ないですね。


馬欲しい。


  ryo


ということで誕生日でした。
なんだか多くの人にお祝いのメールを頂き、ありがたいことです。


でも、20歳になるときも、30歳になるときも思いましたが、
その日の一日と、前の日(もしくは違う日の)一日は、全く変わらないで、大して感慨もないのが正直なところ。


結局月日ばかりが経って、何も手に入れられておらず、
何も知ることが出来ておらず、
何もなしていないことに愕然とする。


***生き物とは


生き物というのは、その定義は生物学的には(ウィルスなんかは境界が難しいけれど)、
・自己増殖すること(子孫を残すこと)
・恒常的なエネルギー変換を行うこと
・自己と他者の区別がつけられること
があげられる。


ドーキンスの「利己的遺伝子」の考え方はシンプルで20年位前の科学好き少年達の心をつかんだが、
ダーウィンの進化論と同じように、それ自身の無機質な意味を曲解して伝えたり批判したりする人が多く、
うまく伝わっていない気がするけれど、
「生物の本質が自己増殖にあるなら、その遺伝情報の自己増殖がみかけの目的にみえても問題ない」
ということが真実だと思う。
生物戦略(餌を奪い合ったときの相手から奪い取るか-争いを回避してほかの餌を探すか、の様な)の考え方や、
包括適応度の考え方にも合い、スマートだ。
問題は、それはあくまで結果論でしかなく、その適応戦略は最適かどうかは環境の変化により分からないということ。
(つまり「より優秀な遺伝子を残したい」という方向性はなく、当時の環境に合ったものが無作為に選らばれただけ)


何が言いたいかというと、
例えば、ある種の鳥は尾が長ければ長いほど、そこに(無駄な)エネルギーを費やすことが出来るということで、
オスとしてメスにアピールする。
そして実際そうしたオスのほうが遺伝子的にも生き残ってきたとする。
が、自然災害などで過酷な淘汰圧がかかった場合、そうでない能力を持った個体が優先的に生き残る可能性がある。
こうした言い回しだと、人は価値観の問題にすり変えがちだと思うけれど、
そうではなく、ただ、無機質に無作為というだけで、そこに目的も方向性もない。


***人として生きるには


哲学は、大して詳しいわけではないけど...
(ミーハーなところはある程度網羅していると思うけれど、深く読み込んでいるわけではない)
「人とは何か」「人は何のために生きるのか」
ということは古来より、大きな主題の1つだったはず。
つまり、
「人のうちに世界はあるのか」
「人の外に世界があるのか」
ということに集約され、結局そこから抜け出せていないのでは。


僕は、基本的に神も死後の世界も信じない(分からない)というところから始めているので、
哲学の流れからすると大分シンプルになるのだけれど、
「存在」と「生」と「目的(志向)」を
自分の生の中で理解するという作業に四苦八苦して生きてきて、今もなお答えを見出せていない。


人の生きる目的としては、
「愛」「真実」「金」「権力」(・・・哲学というより思想ですね。誰かは忘れた)
という。


(僕自身の目的としてね。以下の目的を否定するわけじゃないけれど)
生きる目的が、「金」「物」「楽しみ(快楽)」だとすると、あまりに泡沫的で刹那的だと思う。
「仕事」「名誉」にしても、自分の価値観でなく、人の価値観に左右されすぎ(依存しすぎ)な点に違和感を持つ。
「子供」「子供が育つための環境」としても、(かなり理解は出来るけれど)
子はあくまで劣化コピーだし(自己とは異なるという意味)、自分の目的を過剰に投影させては逆にかわいそうだ。
「真実」というには、何も知ることが出来ない。


***


人は、
「強い、断定的な言葉」
「同じ感性だけの小規模なぬくもり」
「とにかく多量な情報」
「偽善的に自己満足できる状況」
など、選択肢のより少ないほうによりどころを求める。


今のこの国では、(その言い方が正しいのかは分からないが)
生きることの本質を置き去りにして、
その上っ面のほうをかき混ぜて、お金と経済をまわし、
それとその上の価値観を基本として動いているだけのように思う。


***


どこに向かっているのか、
この歳になっても分からないことばかりだ。


だからといって、志向がないわけではなく、
「より基本的な『生きる』ということを純粋に求めた中に、この答えがある」と信じ、
日々生活を、(なんとか)しているわけですが...


まぁ、いってしまえば、それも「空しい」ことかもしれませんが。


眠いので、続きや詳しくは(書く気があったら)次の機会に


***


「人間は自由という刑に処されている」
ジャン=ポール・サルトル