Paca Kajero

うちの菜園の状況などを徒然に

うちのやり方、という蛇足 その2

こういう風に考えて野菜を育てていますって説明2回目。
興味ある人だけ読んでください。
興味ない人はどうでもいいと思います。読まないでください。
映画や芝居なんかを理屈や解説で観ても面白くないですし、野菜も理屈で食べるものではないと思うんで。


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有機認証を取ってない拙菜園の場合、
目に見えない部分、農薬を本当に使っていないのか、化学肥料はどうなのか…
そういうことが気になる人がいるでしょうし、
僕の方も突っ張って認証を取っていない以上、説明する責任が出てくると思います。


結局は、(認証をとってもとらなくても)「信じて」もらわなければいけないわけで…
こっそり使ってしまっても誰にもわかりませんからね。


日ごろ生活、特に仕事上では意に反して「嘘」をつかなければいけない場面も多くあると思います。
幸い自分で商いをしていて特に媚びへつらうような取引相手もいないので、
意味なく嘘はつかなくてもいい仕事につけていますし、
もちろん私生活でも嘘をつかず(好きなことを言って好きなことしかせず)生きています。
一番初めのスタートの段階ではうちのお客さんには僕自身を信じてもらうこと、しかないのです。
それがないと、いくら何を言っても、何を見てもらっても、じゃそれならと認証を取ったとしても全く無意味になってしまいます。


なので、僕のお客さんは最低限僕が嘘をつかない人間だと信じてください。


難しいかもしれませんが(笑)


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僕の基本姿勢は、「科学的思考の上に物事を考えたい」というものがあります。
大本の考え方は生態学がベースで、生態学というのは単一の生物学ではなく非生物学的なもののつながりを含めた総合的な科学です。
これは僕の考えで人に強要すべき問題ではないのですが、
こと自分独りで行うことではなく、第3者(特に違う考えを持つ第3者)と客観的に物事について話し合う場合、
自分のやっていることに客観的視点を入れる場合、
「科学的な思考を持つ」ということは大事だと思います。


「科学」という言葉が氾濫している今、「科学」がとても分かりにくい概念になってしまっているかもしれません。
多くの不実な御用学者や売名行為に走る自称科学者(でそんな人々も大学で教鞭を振るっていたりする)…
結果を求められる企業に所属する研究チーム…
反証不可能性であったり、説明責任を放棄した疑似科学
SNSが一般化した今、全く根拠のない「一見科学的に見えるもの」が大手を振ってまかり通り、
「科学」を宗教の一つのように「信じる」「信じない」という言葉で論じられたりします。


人の心の中までは踏み入れないので、非科学的なものや疑似科学を心の中で「信じて」いてもそれはそれで全く構わないのですが…


I was like a boy playing on the sea-shore, and diverting myself now and then finding a smoother pebble or a prettier shell than ordinary, whilst the great ocean of truth lay all undiscovered before me.


真面目な農業者の多くが真面目に仕事しているために表に出てこないように、
多くの真摯な科学者も真面目に研究しているために表に出て来づらいことからこういった誤解が増長するのでしょう。
本来、科学、そのベースの「科学的思考」は「何もわかっていない」というのが根底にあり、
「わかろうとする」ために仮定を設定し、客観的事実を積み重ねたものと、そうでないものを分けて考える考え方でしょう。
だから「科学は万能だ」か「科学はうそっぱちだ」の二者択一ではなく、
「多くはわからないことだらけだけど、論理的に積み上げて実証されているところをベースにして物事を考える」
「わからない部分は、わからないとして論理的に処理する」のが科学だと思っています。


別に流体力学知らなくても飛行機には乗れるし、光の三原色と加法混色をしらなくてもモニター見れるのと同じで、
知らなくても関係がないものも多いのが実社会ですが、


僕の基本姿勢は、
なにせ一番信じられないのが自分なんで、
まずは客観的な事実を積み重ね、
わからないものは、わからない、と分類し、
大まかにざっくりで把握するものは、大まかにざっくり把握する(←ここらへんが農学でなくて生態学的な考え)
です。


だから(ここまで読む人は誤解しないだろう)
農薬はともかくとして化学肥料の施用に関しては別に毒性のないものはいいんじゃない?と思うし、
(もちろん僕は「使わない」というルールのもとに使っていませんよ、
ただ、以前出席した有機関連の会合でしきりに言っていた「硝酸態窒素」の問題は有機か慣行かの問題じゃないですし
有機態窒素で施用されたもの、播かなくても土中にある有機態窒素は、
一回化成肥料とおなじように硝酸態窒素になってから植物体に吸収されるので…)
(ただし、背景の製造に関する問題や流通に関する問題はあります。これは有機質の資材の流通にもあります)


常温核融合」などオカルトじみていることをさも「科学」の一端であるかのように
大きな声で恥ずかしげもなく語る人には、あまり近づきたくないですし…
(「常温核融合」に関しては、僕たちは、そんな不安定な世界の中に生きていないはずだ!きっと)


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人間て1種の動物としてはとても大きな力を手に入れてしまっています。


長い年月をかけて生き抜いてきたその他の数えきれない生き物は、
「ただ、必死で生きているだけ」です
決して人間の都合よく生きているものなどいません。
それが甘やかされている愛玩動物であろうと、産業動物であろうと、作物であろうと。
彼(彼女)らは必死で生きているだけで、見かけ上人に媚を売っているように見えるときもあるかもしれませんが、
本質的には、決して、「人のために」やら「人がこう思うから」と生きてはいません。


作物も、人のために葉を刈られ、ようやくつけた実を採られたいとなど、全く思っていないでしょう。
(ここでの「思い」とは生育する上での生物種としての遺伝的な方向性ということ)
(人が作為的に選別育種し、形質を作り上げたものは多々あります…というかほとんどそうです)


生物種だけでなく、非生物的な事象もそう。
それが解明されているものもされていないものも含めて、ただ物理原理に沿って生じているので、
常に人に都合の良い方向に動いてくれているものはありません。


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その中で、他の多くの動物がそうであるように、人も外部からエネルギーを「食物」として摂取しなくては生きていけない原理原則があり、
僕のやっていることはその「食物」を人為的に育てること。
折角なので、なるべく良い状態に〜食べ物として〜育てること。
そのために、個々の作目によって甘やかしたり、ストレスをかけたり、いろいろやりながら、
その命を刈り、他の方に届ける、という仕事をしています。


全ての人は、生き物は、何かしらを傷つけないと生きていけません。
特に社会性を持って関係が複雑化した人間はいろいろな名目のもと意図に反して、または無意識のまま、
他の生物、人間をも傷つけることが多々あるでしょう。
僕も生きていて多くのものを意に反して傷つけてしまうことがあると思います。
ただ、できればきちんと責任を持ってできる範囲のものに与える自分のサガは自分で認識できるようになりたいものです。


なんか科学的じゃない感じにまとまったけど、そういう農業の基本姿勢です。


続く



  ryo