Paca Kajero

うちの菜園の状況などを徒然に

子牛生まれる

牛屋さんのお手伝いに行ったら、
丁度タイミングよく出産に立ち会えました。
立ち会うというか、引っ張って出してあげてみました。


なんだか、生まれた瞬間から牛であるという当たり前のことなのですが、
ただ、それだけでも感激
・・・という表現は好きじゃないな、
なんていうか、
「牛って生まれてくるんだな」
と、そんな当たり前のことを実感しました。


牛屋さんは年60頭もこの出産イベントがあるとのことです。
生まれた牛が男の子ならば、2週間育成の後、肉用として販売。
女の子ならば、そのまま育成して乳を搾るとの事。
それが仕事として組み込まれているので、淡々としたものです。


その淡々さは、今日の夕ご飯をハンバーグにしようと、
スーパーで2割引のシールの貼ってあるひき肉を選んで買うことと、
どこにも差は無いのかもしれないけれど、
その後、一時間ほど牛舎の掃除をして、また見に行ったときに、
もうすでに立っていた子牛に、敬意に近いものを感じました。


***


うちでは3年間、毎年トリを殺して食べるということをしています。
そんなことに意味は無いのかもしれないし、
「命を粗末にしないように」やら「感謝して食べ物を食べよう」
などと説教臭いことは毛頭やるつもりはありません。


なんだ、なんて言えばいいんだろう?


話は変わりますが、少し前に知人と話をしていたら、
「日本人は、答えをすぐに探そうとするよね。考えようとしないで」
といわれました。
こうやって字を打っている僕が言うのも少し変かもしれませんが、
近頃、雑誌、テレビ、インターネット、様様なセミナー...
情報があふれかえり、その中で、
カリスマ性がある言葉や、耳障りのよい言葉に人はよりがちになります。
「まわりにやさしくすると、自分が幸せになりますよ」的な??
「人の幸せとは?」みたいな???


いや、誰が何をしようと、どう群れようと良い悪いの問題ではないのですが、
この答えを探そうとする国民性に、日本に民主主義が根付かない要因があるのかもしれません。
まぁ、これも根付こうが根付くまいが、どうでもいいのですが。
いや、どうでもいいというか、まぁ、仕方ないなぁ、といった感じなのですが。


つまり、何か物を見たとき、出来事があったとき、
答えは、外には無く、内にあるはずです。
お互い尊重し、対話を経て、妥協点を探っていくのが、
自立した関係を築くための道だとも。
家族であれ、友人であれ、国家であれ。


人の中に本来に流れているものは、外から見たら複雑で、
内から見たらシンプルなものであるはずなのに...
「朝起きて、天気がよくて、働いて、日が暮れて、寝る」、
みたいなね。


幼いときに肉になることを運命付けられて生まれた子牛は、
それでも必死に1時間も経たずに立ち上がろうとしました。
人の「生」や「愛」は言葉遊びの中にあるべきではなく、
経済の流れの中にあるものでもなく、
この子牛と同じようなところにあるはずなのに、と思います。


  ryo