多いようだけれど、休みです。
雨です。
それでも朝方発送用の収穫をしました。
今度の料理教室開催にあたって、
地元新聞の記者さんが記事を載せてくれるというので、
取材を受け、
適当にしゃべり、
(大体そんなものに真面目に応える人の気が知れない)
だけれども、
「やはり、地域密着の新聞だからこそ取り上げてくれるのですね、ありがとうございます」
みたいな心境になりました。
・・・と言っておけば良いでしょう。
僕はとっていませんが、
そのうち運がよければ記事になるかもしれません。
朝の仕事は、
雨なのを半分以上言い訳に仕事する気はなかったのですが、
期日指定で送らなければならなかったためです。
ならなかったにもかかわらず、
いざ、長靴を履いて外にでる段階になると躊躇してしまいます。
好きなことをしていることに自信はあるし、
長靴をはかなくてもいい選択肢は与えられているので、
躊躇する必要は全くないのですが、
長靴は右足用と左足用に別れていて、
履く時に、それを認識しなくてはならないことに、
ときどき絶望にも似た感覚を得ます。
それは長靴の右足用と左足用の違いがわからないわけではなく、
(もし、それがわからないのだったら、問題だと思います)
自分の左足と右足の区別をつけるのが、難しくなるからです。
今日は、読書の日。
半分自慢・・・ではなく、まぁ、そういうことなのでしかたがないのですが、
僕は、昔から数学じみたことが、なにやらできたようだし、
例えそれが、どんな大学の受験問題であるにせよ、
なんとなく答えが分かりました。
勘ですね。
そしてそれは、全くもって意味をもたないことも、なんとなく分かっていました。
それが本質を無抜く力でなかったことを今でも悔いりますが、
分からないから、面白いということもあるでしょう。
そんな答えが導き出される環境よりも、
もっと刹那的な、感情のほうが大事だと考えています。
刹那的というと、良いイメージはないかもしれませんが、
先のことを考えるといっても、
(当然考えなければいけませんが)
せいぜい自分の手の届くところは、次の世代に関することくらい。
・・・それ以上に手が届くというのは奢りでしょう。
それは、人によっては言い方が変わるかもしれませんが、
刹那的であると考えます。
そんな感じで、今日も長靴の右側用を履くのか、
左側用を履くのかについて、
悩みます。
ryo