Paca Kajero

うちの菜園の状況などを徒然に

今日の運勢でうお座はいつも1位にならない

今年から出させていただく、愛菜屋さんの大掃除に行ってきました。


まぁ、掃除はいいのですが、
そこで先輩農家さんに呼び止められ、長々とお話を聞いてきました。
有機資材や微生物農薬の施用や、
作物のアミノ酸に対する窒素肥料の使い方などなど...
どちらかというと、僕が得意にしなければいけない分野のはずなのに、・・・詳しい。
慣行農法だろうがどうだろうが、こういう人がたくさんいるから、農業は面白いです。
どっかの勉強会に出るより、よっぽど勉強になりました。
ありがとうございます。


逆に、有機農、自然農の場合には、経験に頼りすぎていて、
ひどい場合には、何とか農法などという少し胡散臭い農法を掲げ、
やれ星の動きだか、月の動きだか、なんたらのリズムやら、あげくに想う力・・・などと、
オカルトチックなものの、なんと多いことか...
(いや、違いますね。有機/自然農にもすごい先輩方がいるので、単純に母数の違いでしょう)


想いの力なんかは、否定しませんが、
つまり、人を想い、(想われていると)想うことにより、
影響を与え、受けることがあるかもしれませんが、
人は想っただけで自然を動かせるほど影響のある生き物ではないですよ。
そういう人達は、本当の自然の中で独りで過ごしたことがないのだろうと思います。


自然は、厳しくも、やさしくもなく、
ただそこにあるだけです。


***


オカルトも否定はしません。
科学として認識されているものも、そのメカニズムが分かる前は所謂「オカルト」でしたでしょうし、
今ある所謂「オカルト」も将来は科学になるものも含まれているはずです。
・・・ごくごく一部ね。


よって科学もそれがすべてとは言いません。
世に多いえせ科学者は置いておいて、科学とは「分からないこと」が常に前提にあり、
それに近づこうと努力しているものだと思っているからです。


***


人は「分からない」ことが多い中、「分かろう」として、
努力や試行錯誤を重ねてきました。重ねてきたものがあります。
つまり科学的な実証という洗練をくぐってきたもの。


自然、生き物を相手にする農業の場合、
「すべて分かる」ということは、誰も、一生無いことなのでしょう。
それでも、少しでも頂に近づくためには、
まず、今までの先人達の試行錯誤で「分かっているもの」に敬意をはらい、
その後のプラスアルファ、スパイスの部分で「オカルト」があるべきです。


それなのに、大きな声で、セミナーや講演会、講義などをしている農家さんもいて、
なんだか、見ていて、恥ずかしくなります。
謙虚さとは?
別に人事だからどうでもいいのですが...


丘に上がって満足していたら、頂を見ることすら出来ないよ。


***


情けないことに、うちもイベントなんかをしても、
例えば日本の自然農を逆輸入した「パーマカルチャー」なんかをうたい文句にすると、
人が集まります。
ま、これは農業以外でも、言葉遊びによるセミナーの氾濫は、
がっかりするほど多くありますが...


そうじゃない。
言葉は本質を変えられない。


***


こんなことをしていると、
「話を聞きたい」と畑に来ていただいたり、
話をして欲しい、と言われたりすることが(ごく)たまにありますが、
僕は、全くの素人ですし、たぶん一生人に何かを言えるほどのものを得ることは出来ないと思っています。
長い長い道のりです。


畑に来るなら、長靴もって来てください。
きれいなかっこでは、分かるものも分からないですよ。
野菜を育てたいのなら、野菜を育てることを「すばらしい」といいたいのなら、
庭の畑か、ないときにはプランターにでも種を播くところから始めればいいのじゃないのでしょうか?
その「すばらしい」ことを自分で出来ますよ。
プランターに種撒くくらいなら、30秒で出来ます。
プランターでも、リーフレタス、ハーブ、ミニトマト、ピーマン、ナス...意外と何でも出来ますよ。


***


結局、
無為自然
有為自然、
そしてまた無為自然...


農業とはその境目で揺れ動いているものなのでしょう。


  ryo


あっ、でも講演の相手が女子大生のグループなんかだったら、
受けるのもやぶさかではない。