Paca Kajero

うちの菜園の状況などを徒然に

演劇祭2日目

昨日と同じ流れ。
朝方仕事。
明後日の直売準備。
南瓜整理・移動していて腰を痛める。
にんにく植え付け準備。
柄に無く、購入資材(骨粉)をふる。
うちの土地はリンが効かないため、来年は試験的に資材導入。
一応Jas認定。
歯止めがきかなくなると自分のスタイルと整合性が取れなくなるが、
自分のスタイルとは、ただの自己満足の部分が多いので、
本来こだわるべきは「味」(あと最低限の商品になりうべき大きさの確保)であるということで。
にんにく、玉ネギ、ハウス物の果菜に少し使ってみます。


***


演劇祭。


北見。「蝶のような私の郷愁」。
全体的にこれをやりたかったという意図がよく分からなかった。
動きはさすが訓練されている、と目を見張る。
舞台の暗さが中途半端な気がして、もっと暗くしてしまうか、表情見えるくらいまで明るくしてしまうか。
自分だったら、客に圧迫感を与えるくらい何も見えない部分で、火を効果的に使うか。
暗い演技をするくらいなら、全く演技をしないか、
本当に真っ暗にしてしまって、音だけで表現するか。
怒られそうだが。
食べ物も、直接的な「輪ゴム」という表現が出てきた以上、
もっと食べかたにいろいろこだわった方が好みだったかもしれない。
意味を持たせるということではなくて、
食べることへの固執みたいなところで。
違和感のある台詞には、理由付けがされていないと...
暗いところで見えているためには、そのための何かが必要なんじゃなかろうか...
どちらにしても難しい本でしたね。
日常の狂気と、暗く特殊の状態の中で逆に正常になり、残る部分の表現。


うちの芝居は、前田氏がいろいろ言及していましたが、
今回は、(よく知らないで言ったら怒られそうだけれど)
きっと単純な悲劇としてやっているから哀しくて良かった。
まぁ、確かに二度観たらどうかというとあれなのかもしれないけれど、
個人的には、いままでこの話はあまり泣けなかったのが違和感があったため。
単純に泣くことも大事だと思う。
確かに誘導するかどうか(説明がくどいかどうか)の問題はあるかもしれないけれど、
この芝居は逆に哀しくなくて人間関係だけ見えたら、嘘になるからなぁ...
そこに人の不幸を考えてしまうのは、偽善ときわきわで、どちらがどうとは言えないのでは。


前田氏のアフタートークにはその言葉への共感と、
その逆との両面から感じるものがありました。


いろいろやっていくと、「それは駄目だ」と世間から言われることが多いじゃないですか。
それでも、金にならないことをやっている意味というのは、
自分にしか分からないもので、
自分の感性も人にあわせるためにあるものではないと思います。
(そこにいい悪いも、ないでしょうから)
人とやり取りしなくてはいけないことは、そこに理屈を求めて説得することではなく、
(人と話す場合には論理性が求められることはもちろんだと思いますが)
尊重と、対話なのだと。


結局、人のことなど考えることなどできず、
(少なくとも僕にとって一番に大事なことは)
自分がどうしたいかと、
自分がどう成長したいかであるはずなので、
どの状態であろうと自分で感じ判断する感性と。
それが先にいる人でも、後に続く人でも、
名を成していようが、名を成していなくても、
他の感性を認める勇気が必要と再認識しました。


というわけで、これからも自分勝手に野菜を作らせていただきます。
つまり、
人ではなく、自分が良いと思う方法で、良いものを作るように。
ただ、凝り固まることは無いように。
特に見逃しがちなところ、無視しがちなところからも吸収できるように。
自分のために。


というわけで、骨粉を使ってみることもするのです。
ただ、それも合わなかったら、すぐやめる(すぐ逃げれる)状態で闘う!


「戦場では、臆病者が生き残る」


  ryo


と、今日は私的なメモです。


どうでもいいけれど、ばらしのときに腰が痛かった...