春からの作業が楽になるようにと、3号ハウスをトマト用に改造。
改造と言っても、誘引用のワイヤー張って、
温度を低めに管理できるように巻き上げの開口部を大きく広げただけですが...
写真でも何がなんだか分かりませんね。地味な作業です。
こんな地味な作業でも少しでもやっておけば春に楽になるはずです。
なるよね?
相変わらずワイヤー(エクセル線だけど)は絡まって、
小一時間ほど解こうと試みてみたけれど、最後は諦めました。
前回も絡まったはずなのだけど、ちゃんとしまってあったなぁ。
昔の僕はがんばったのでしょう。もしくはコビトか。
今の僕はがんばらないので、絡まったまましまいました。
未来の僕が困ることでしょう。
どっちにしろ冬の仕事なんて地味なもんだ。
それでも今年は雪が降っていないからいろいろできそうだ。
のこのこと進めて行こう。
うちはイベントばかりして、
例えば、水着のおねーちゃんたちがトマトをぶつけ合う「収穫祭」や、
裸で鹿を狩りに行く「鹿狩祭」など派手な面だけがクローズアップされがちですが、
こんな地味な仕事もしています。
ryo
言葉というのは、とても厄介な代物で、
何かを伝えるにはいつも足りなくて、
伝えようとしていたのに、全く違うことを伝えてしまったり、
時には、全く真逆のことを伝えてしまったり。
それでも、言葉を紡ぐのは、何かがあるからで、伝えたい相手がいるからなんだよなぁ、と。
大事なことは、何かがあることと、相手がいることで、
言葉を弄することが大事なのではなく、嘘を憎むことが大事なのではなく、
そもそも、
タイの安宿で、ベトナムの街角で、カンボジアの路地裏で、
いつも言葉を持ち合わせていなかったけれど、言葉たるものは、確かにあった。
英語が無味乾燥に感じた高校時代、
全く、間違っていなかった、と思う。
言葉は、結局のところ、なんでもない。
人が、言葉を机の中にひっそりとしまう場合には、
その言葉ではなく、その言葉を紡いだ人の心をしまう。
だから、言葉そのものではなくて、常に、
その前の何かが、言葉を紡ごうとしたときの何かが、大切なんだよね。
と、年明けから読んでいた言語学の本と一通の手紙から考えさせられました。
昔から、言葉にきちんと向かい合っていたら、
もっと英語も好きになっていたのだろうけれど、うまくいかないものだ。
そして、そのために、
人がどんなに言葉を弄そうが、
貴女がどんなに言葉を弄そうが、
僕にとっては言葉は相変わらずギアスだし、
やはりどうでもいいものだ。
矛盾しているようで、僕の中では矛盾していない。
わかるかな?