Paca Kajero

うちの菜園の状況などを徒然に

Nz渡航後記 その1

旅に出るたびに毎日の出来事を記録しておくことにしているのだが、
記録は記録にしか過ぎず、今の考えを記しておいたほうが面白いと思うので、
今回は、適当な感想文めいたことを残しておくことにする。


旅の前にもちらっと書いたが、
旅の目的が、僕の場合、食べ物や名所めぐりなどではない。
もちろん、10人いれば10通りの目的があってしかるべきだし、
どれが良い悪いというものでもないが、
どうも、僕にはあわないようだ。


以前ぱらぱらと旅に出た後に、自分で達した結論が、
「旅自体が重要なのではなく、旅をするような感覚で生きることが重要なんじゃないか」
ということ。
それでも、自分のいたらなさのせいか、
留まっていると、どんどん滞っていき、身動きが取れなくなる強迫観念に駆られる。


おそらく、多くの人は生きていく上で、多くの物や人を必要とするだろうし、
それは、いたって当たり前のことなのだろうが、
そして、僕自身にしても、周りに見につけているものや、お世話になっている方々、
大事な人々を手放したいというわけではないが、
多くのものに囲まれ、多くの価値観に、
(そして往々にして同所に留まることにより、画一的な価値観に、)
囲まれていくことが、苦痛となる。


同じところで生活する上では、同じ目的を成し遂げる上では、
価値観をすり合わせることは重要となる。
だが、それを追い求めるあまり、
自分を見失っていないか?
自分とは異なるものを(意識的、無意識的は別にして)排除していないか?


本来、人それぞれ、全て異なり、
そこに誤りも、正解もない。


社会的常識という罠に落ち込んでいないか?
例えば、「より基本的な生活を」などと嘯いていても、
貨幣を中心とした価値基準、社会的地位、習慣、他人からの意思の強制...
そういったものを、認めつつも、自立し、疑問を抱き、自由でいるか?


***


旅をすると、日常的に「あたり前」になっている情景から
遠ざかることが出来るのみならず、
日常的な「常識」からも一歩引き、「あたり前」となっている価値観を見直すことが出来る。


これが、僕のたびに出るわけであり、
転々と公共の交通機関を使わず、歩き、人と会い、話すわけだと思う。


あと、バックパックひとつで、ふらふらしていると、
『自分に本当に必要なものはこのくらいで十分なのだな』と再確認できる。
月並みだが、人は独りで生まれてきて、独りで死んでいく。
それはどんな人でも。
いくら裕福でも、物や人に囲まれても、
結局人独り、バックパック一つで生きていける、
というところに、僕なりの真実が含まれているような気がする。


小鳥の羽根のように軽く!


  ryo



久しぶりに登った山。夏満喫。
頂上近くに山小屋があり、普通は1泊するらしい。
僕は、山小屋にお世話になるお金がなかったので、
(Nzは国立公園での野宿にうるさい。・・・それ以外も違法らしいけど)
縦走装備(というか普段の歩いている荷物を持ったまま)登山口まで13kmくらい歩き、
そこで「こんな時間なのにこれから山に登るのか?」と警察に職務質問され、
「登るよ」と日帰りで登ってきました。
山頂はロッククライミング状態だったので、
さすがに荷物は降ろして登りました。
そして降りてからも、また歩き。
どこまでが登山だか分かりません。