Paca Kajero

うちの菜園の状況などを徒然に

だちょう

ちなみにこのブログは、野良仕事の記録と、
まぁ、どんなことをやってきたかなぁ、という自分のための記録、
JASとっていないうちも真面目に自然栽培で野菜作っていますよというアピール少し、
のために書いています。


つまり、冬場は大して書くことありません。


が、なんだかこのごろ数日ブログサボっただけでも、
「生きているのか」的な問い合わせがくるので、
適当に書き散らすこともあります。
誰が読んでいるのだか...


***


で、ネタがないので、関係ないことも書くかな。


だらだら書くので、安否を気遣っている方は、
「更新されているな」というところだけで、読まなくても良いです。


***


昔読み散らかした本に、
ダチョウのことが書いてあった。
(基本的に僕は人に何かを伝えようという気が全くないので、出典等はすぐ忘れてしまいます。
よく垂れ流し・・・と言われる)


(うろ覚えだけれど)
砂漠で、戦争の最中、周りに起こる出来事を注視できず、
砂の中に頭を突っ込み、何もなかったことにするダチョウの話。
そのダチョウは幸せかどうかというもの。


***


人はよく「良い、悪い」「正しい、間違っている」
という言葉を使うけれど、基準がどこにあるのかは、難しいところ。
もちろんその人なりの基準だろうけれど、
(もしくは形式的に法律や慣習があるのだろうけれど、それも人や文化により異なる)
その人の中で完結することならともかく、
おそらく、おしなべて二元論ではうまくいかないことが多い。


想像力の及ぶ限り、人は他者を慮れると思うけれど、
おそらく(相手との距離が遠くなればなるほど)限界が出てくる。


それはきっと自然なこと。
「世の中に、今この瞬間にも、飢えで死ぬ人がいる」と頭で分かっていても、
それを常に気にしていたら、おそらく大半の人は身動きが取れなくなる。


ただ、それを目で見、触れると、人事でなく、自分のリアルになる。
20代の頃、暇と自由に任せ、東南アジアをぶらぶらしていた。
金は大してもっていかなかったし、
大きな街でもどちらかというと路地裏や平均的な市民の生活する場に身をおいていたと思う。
家族のために身を売ること、子供を売ること、そんな話は聞き飽きたし、
子供達が内戦や残された地雷で傷つき、
10人ほどの3世代の家族がカーテンだけで仕切られた部屋で重なり合う様に寝、
拾ってくれた家では、カブトムシくらいのゴキブリや、ハムスターくらいのネズミが、
寝ている間中体の上や足元を駆けずり回っていた。


関係なくはない。
日本で100円ショップで買えるものは、
なぜあそこまで安価なのか、
その裏には、生産には誰が絡んでいるのか?
想像しようと思えば、簡単に想像できること。


想像力という面では、過去の牛肉偽装事件も似たようなもの。
だます方に瑕疵があったことは確かだが、
自分自身の仕事から受け取る人件費や、自身の生活を考えたときに、
「同じ国で牛を育て、ミンチにして販売したものが、そんな安価なはずがない」
と想像はできるはず...


脱線


***


見ていない物、知覚していない出来事は、
他人事なので、無いにも等しいのかもしれない。
結局、関係ない人のことは、どうでもいいのだろうし、
それが社会のシステムと割り切ることもできるだろう。


ただ、見てしまい、一緒に遊び、飲み、世話になったら、
その人達のことは自分の世界のことになる。


***


何がそのダチョウにとって幸せなのかは、
分からない。
何も無かったかのように頭を砂に埋めて、何も無かったことにし、過ごすことも、幸せかもしれない。
頭を上げ、問題に正対する勇気も認めたいと思う。


大体頭を上げたって、入れ子のようになっているこの世の中、
上げた先が結局砂の中でした...みたいな落ちは付きまとう。


まぁ、なんでもいいんだけどね。
そういう話があるということ。


おしまい。
(落ちなしです)


  ryo


勝手に判断すればいいことだし。
結局は首を出すか出さないかは、それぞれが判断することなんだと思う。


大体、ほとんどのダチョウは自分には関係ないので、放っておけばいい。
問題は、「自分との距離」「自分を頼って来ているかどうか」
「そのダチョウが周りの出来事を知覚しているかどうか」
そして、「砂に首を入れていることを是と思っているが涙しているか」ということに尽きる。


価値観は違って、何か事柄があったときに、
感じ方や見方は違ったとしても、
事柄があったそのこと自体は、ウソじゃないからね。


僕はお節介なので、
「誰か近しい人が、物を食べれなくなっていたら、無理やり食べさせる」
選択肢を選ぶ。
そうなんですよ、Tさん。
その段階では、悩まないですね。


外のことを知らないならともかく、それを知ってしまい、砂に首を入れることで涙するなら、
それが一時の平安だとしても、ずっと涙することになる。
外の世界を認めることは辛いことかもしれないけれど、
そこからはいろいろな選択肢があるし、行動が取れると思う。


究極的にはその人が生きようが死のうが自分に関係の無いこと(価値観は常に違うこと)とは知りつつも...


やり方は常に稚拙であることを反省しつつ
結果は自分の最も意図しないことに流れることも反省しつつ


そして自分自身が同じように砂の中に頭を入れたままのダチョウであることも認識しつつ